ヴィットゲンシュタイン(1)

 「好きな作曲家は?」と言う質問をよく受ける。
なので、お行儀の良い答えを用意している。すぐに答えるのは「Webern」(ヴェーベルン、1883-1945)。

 12音技法を作り上げた作曲家Schönbergの弟子の一人。もう一人の弟子Bergが最後まで「調性と12音音楽との結合」を試みていたのに対して、Webernは未来を向いていた。12音技法が「音の高さ」にのみ着目しているのに対して、「音の長さ(音価)」、「強さ(強度)」、「音色」にまで発想を展開させている。そのため、緻密に組上げられた曲は極めて短く、そして、生涯を通じての作品数も31曲と寡作である。

 Webernは絶対に音楽史で学ぶ重要人物だけど、現代音楽の入口なので、教える側がその重要性を理解していないと、名前を紹介しただけで通り過ぎる。だから、音大で教育を受けた音楽家にとっても??な作曲家。そこで、もうひとつ、分かりやすい人物を用意している。

 「Scriabin」(スクリャービン、1872-1915)。
ピアノ音楽を得意とするロシアの作曲家。ショパンに傾倒し、Chopinのような曲ばかりを初期には書き綴っている。そして、途中から精神の落ち込みと共に、「神智主義」思想にドはまりし、その頃から超おもしろい曲を書き始める。その音楽では「神秘和音」と呼ばれる新しいタイプの和音が、やはり中期から使われ、名前の通り「神秘主義」などと呼ばれる。

 先日、後輩でとても仲の良いピアニスト黒田亜樹さんが連続して、本人と弟子達でScriabinの小さなコンサートを連続して開いた。(201.12)
 学生時代、彼女の実家に1週間くらい住み込んでピアノのレッスンをして、コンクールを受けに行ったこともあるくらい仲が良い。それほどまでに、仲も良いし、彼女は僕のことを音楽的に絶大な信頼を寄せてくれている。(だが、彼女ではない!)

 その後、スペインだかのコンクールで優勝して、現代音楽を演奏するピアニストとして確固たる地位を築いた。
 旦那様は、杉山洋一という作曲家・指揮者。普通にコンサート指揮者として活躍しているし、2021年には作品が芥川賞」候補に選ばれた。そして、その演奏審査の指揮者は自らすると言う、これまでに誰もしなかったことになった。良い旦那を捕まえた!
 そして、彼らは基本的にイタリアに住んでいる。
(最近、週刊新潮に出た記事)

 Scriabinは「推し」なので話しは長くなるけど・・。短めに。

 彼は、なんとRachmaninoffと同学年。いつも、Rachmaninoffの方が成績「1番」で、Scriabinは2番。これを7歳から続けられているので、青年期には当然「いじけ」てしまう。そうなるとますます審査員の先生方に嫌われる。この「いじけ」も彼の音楽的成長には必要だった。
 また、Scriabinは、ピアノだけではなく管弦楽曲も相当に優れている。
特に交響曲第4番『法悦の詩Le Poème de l'extase)』(1908)、第5番『プロメテ-火の詩( Promethée, ou le Poème du Feu)』(1910)はよく演奏される。
 4番のタイトルが「法悦」となっているけど、これは原題を使うわけには行かないので仏教用語の「悟りの境地に達したときの心境」を表わす用語を使っている。しかし、実際には文字通り「エクスタシー」なのです。

 芸術とは「」なのです。生には「誕生」があり、その終着点は「」なのです。したがって、「生」とは「死」を含み、それを表現するのが芸術とされています。この定義は日本ではまったく伝わっていない。それこそ、世界中の美術市場を荒らしまくっている村上隆(1962-)などは、当然そのことを理解している。理解しているからこそ世界中で受けている。で、その「生」を産むものは「」つまり「エロス」なのです。かつての芸術家はそのことを強く認識することはなく『ビーナスの誕生』(1483?)などの絵を描いていました。しかし、1900年代初頭となると、それを突き詰めた「芸術論」が完成し、それに従って「芸術」が創作されるようになったのです。そうした時代だからこそ、Scriabinの作品には赤裸々な性表現の作品が多いのです。

 5番『プロメテ』では、「色光ピアノ」という、鍵盤を叩くと音と同時にライトから色が出るものを使っている。
 今から訳100年前の当時は演奏がかなり困難だったけど、現代の電子機器を使えば難なく再現できる。単に「音」だけではなく、ほかの感覚分野を巻き込んでいる。さらに続けて構想していた未完の作品では「香」をだす計画だった。
 
 どうですか?Scriabin聴きたく(見たく?)なりませんか?

 話し戻って。
 黒田アキの絡むScriabinのコンサートなら行かないわけには行かない!
1日目は、Scriabinの初期の小品と彼の尊敬していたChopinの作品で構成されていた。2日目は、中期以降の、つまり神秘主義になってからの曲がメイン。最後のソナタとなった『ピアノソナタ第10番』も演奏され、充実の演奏会だった。

 2日目の最初は、やはり小品ではじまった。最初期の「カノン」が演奏された。
さすがに一流ピアニストが弾くと、音楽技法としての「カノン」という曲が、名曲となって甦ってくる。ここしばらく、ピアノとは遠ざかっていた・・・と言ってもコンクールなどのレッスンは続けていたが・・・やはりここ数十年のピアニストの技量の向上は凄まじい。

 それぞれのピアニストは、「誰かの曲」と「Scriabinの曲」を弾く。
たとえば、「ChopinとScriabin」とか、「初期と後期」の曲とか、同級生であった「Rachmaninoffの曲」と、などなど、楽しませてくれた。

 あるピアニストが「左手のための2つの小品」を演奏した。
「そんな曲があったなー」と曲を聴きながら思い出していた。Scriabinは20歳の頃、練習をし過ぎて右手を痛めてしまった。でも、そんなことでめげる人間ではない。使えない右手を無視して、「それならば!」と左手の強化に励んで、こうした曲まで書き上げている。


<左手のための曲>
 案外世の中、左手のための曲というのは多くて、それも大作曲家が数多く書いている。中には、Ravelの『左手のための協奏曲』(1930)などの名曲ある。

 これらの作品は、Scriabinのように自分のために書いたのではなく、第1次大戦で右手を失ったピアニスト、Paul Wittegenstein(1887-1961)のために作曲されている。ラヴェルブリテンヒンデミットプロコフィエフ、Rシュトラウスなども彼たのめに曲を提供している。それ一流のピアニストであったと分かる。

 戦争などで手足などを負傷した場合、現代でもそうであるけど、その患部から感染が血管を通して広がる可能性があると敗血症となり、死亡してしまう可能性がある。(血液は無菌である。そこに細菌が紛れ込むと一瞬のうちに脳を含む全身に菌が回ってしまい多臓器不全となり、死に至る)こうした際には、その部位を根元から切断して敗血症での死亡を食い止める。その方法はローマ時代あたりで既に確立されていた医療技術と考えられる。「戦場」だからほかに治療法がないのではなく、現代でも交通事故などで同じような状態の場合、その原始的な「切断」という処置が普通の治療法として成される。

 この「左手だけのピアニスト」Paul Wittegensteinがいたために、近代では多くの「左手のため」の作品が存在する。

 現代においては、戦争や事故よりも片手を失うのは脳障害によるものが多い。
手は存在しているけど、神経が伝達されず、麻痺を越えて硬直する。特に、現代では医学が発展して、脳梗塞や脳溢血などで、即、死に至ることは少なくなって来ている。その代わり、脳の一部の機能が失われた状態になる。
 脳と体の神経は左右逆転してついているので、右脳の障害は左手・足に出る。もっとも失うと大きく感じられるものは、左の側頭部にある「言語野」。この付近で損傷が起こると右手・右足に症状が現われると同時に、言葉がしゃべれなくなってしまう。これは、運動機能を失ってしまうことよりも、人間としての存在が極端に失われる。やはり、人間と猿との違いは「言語」を持つかどうかにあるので。
 男性は左脳をやられる確率が高いらしい。
となると、右側に麻痺が起こり、程度の差こそあれ会話も十分に出来なくなる。「左手のための」と言うことは、このケースに該当する。

 日本人ピアニストにも同様に病気により右手を失った、正しくは、右手の機能を失ったピアニストが存在する。
 館野泉(1936-)。北欧の作曲家の作品を専門に演奏するピアニストとして名が売れていた。実際、奥様はフィンランド人。2002年、コンサート終了後に脳溢血に襲われ右半身麻痺となってしまった。しかし、症状が軽かったのと、もの凄い努力により翌年にはリハビリレベルだけれど復活している。その後、さらに演奏会に耐えられるようにリハビリを続けると同時に、日本人の作曲家に「左手のため」の曲を数多く依嘱している。 

 驚いたことに、館野さんの依嘱曲の中に知り合いが2人もいる。
どうして、どこから、そんな話しが行ったのかが不明だけけれど、恐らく、それぞれは別々な経路から依嘱されたのだと思う。(なぜ僕には来なかったのか??・・・大体、こういう場合には自分だけの仕事を確保するために他の人を紹介しない。僕は弟子などを紹介するけどね!)

 中でも『サムライ』という曲は、館野さん自身も気に入り、多くの演奏会で取り上げているだけではなく、マスメディアや皇族の前での演奏の際にも選曲されている。また、音楽事務所の館野さん自身のプロモーション動画でも使われている。
 光永浩一郎作曲『サムライ』

 

<ある日突然>
 ある日突然、ヴィットゲンシュタインに絡まった。
そう、左手のピアニストPaulのがなんと、哲学者Wittegensteinなのです。

 Ludwig Wittegenstein(1889-1951)は、オーストリアハンガリー2重帝国のウィーンで生まれ、イギリスで活躍した言わずと知れた20世紀前半を代表する哲学者。

 父親カール・オットーは、当時ヨーロッパ中の鉄鋼カルテルを率いる、ヨーロッパでも抜きん出た富豪であった。
 Wittegensteinの兄弟は、出産時になくなった子供も入れると9人。本人は、その9番目の末っ子になる。上の兄5人の内、3名が自殺をしている。そうした形質は本人も受け継いで、常に自殺衝動に駆られていた。そして、すぐ上の兄Paulは左手のピアニスト。
 彼の家はとてつもなく裕福なので、芸術家達も出入りしていた。そして援助もしていたらしい。その中にはBrahmsまで含まれている。また、絵描きも同様に出入りしていたクリムトは姉マルガレーテの肖像画を描いている。(1905)

 そうした環境の中で育っているので、誰もが音楽を初めとした芸術の才能を開花させていった。


<教育>
 Wittegensteinの名著と言えば、前半に書いた『論理哲学論考』。(1921年出版)

 なんと、第1次世界大戦下で、まさに土豪の中などで書いている。
よく、電車の中の方が読書が進む、とか言われるけど、その究極版。砲弾が飛び交い、死が隣り合わせ方が思索にふけれるらしい。で、戦後、フィヨルドに借りた山荘に籠り、一気に書き上げる。

 ただ、その後、この書籍を出版するのに、もの凄く苦労をしている。
実は大戦前に、父親が亡くなっていたので、その莫大な「遺産」を継ぐことができたが、戦争から帰ると、遺産をすべて放棄してしまった。そのお金があれば、この本1冊くらい出版するのは何でもないことだったのに・・・。

 彼の受けた教育は、当時の裕福な家庭に良くあるように、家庭教師を家に呼び、そこで初等教育を受けている。その後、リンツにある「実科学校」に進学し3年間学んでいる。このとき同じ校舎にはヒトラーも学んでいた。時代というか、とにかく、著名人が彼の周りには目白押しで登場してくる。これは、やはり彼が元々「家」を通じて受けた「」ではないかと思う。確かにBrahmsらと出会ったのは「家」の持つ「財」のつながりだったかも知れないけど。

 そして、熱力学のボルツマン(1844-1906)の講演を聴いてウィーン大学進学を希望するけど、ボルツマンの自殺により、直接の指導は受けられなかった。その理論から航空力学に傾いていく。そもそも、熱力学は、航空機にとってあちこちで必要な理論で、さらにこの当時開発途上のジェット推進エンジンなどにも応用ができる。その後、ベルリンの「シャルロッテンブルグ工科大学」を経て、イギリスの「マンチェスター大学」へ進学している。現代でも物理学分野では「熱力学」は難解な分野のひとつ。その中身は「統計力学」となり、量子力学の入口へとつながる。したがって、そこでは数多くの数学的知識を必要とする。Wittegensteinは、そのことからさらに、この数学、もしくは「数学論」に興味を持ち始め、さらに「論理学」ヘと興味は進む。 

 紹介を受けて「ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ」の教授であったRuselle(バードランド、ノーベル文学賞受賞、1872-1970)の元で「哲学」を正式に学びはじめる。また、同時にMoore(1873-1958)にも哲学を学んでいる。そう、「ムーア・パラドックス」のムーアさん!また、学内では、マクロ経済学の父Keynes(1883-1946)とも出会い、ケインズは生涯Wittegensteinを尊敬している。やはり、次々と凄い人の名前が出てくる!!

 

<戦争と信仰>
 1914年、第1次世界大戦では健康上の理由から徴兵を免れたのに、自ら志願して戦場に向かった。
 ピアニストの兄Paulの負傷の知らせを受け「哲学の何が役に立つのか!」と疑念を募らせる。その頃、偶然にであっ会ったトルストイ(1828-1910)の『要約福音書』を読み、再び信仰を取り戻す。トルストイ自身も、裕福な生活から貧困な生活に自らを置き、清貧として生涯勤めている。

 そうした姿勢は、戦後のWittegensteinの行動に強く影響をもたらした。この短書のもとは『4福音書の総括と翻訳』。4福音書とは、「マタイ伝」、「ヨハネ伝」、「マルコ伝」、「ルカ伝」の4つの新約聖書。この書籍を読むためには、当然その前提となる「新約聖書」の知識が必要となる。「聖書」自体はそれほど苦労しなくても、戦場でも手に入るだろう。この「新約聖書」の研究によって、彼は知らぬ間にユダヤ教聖典でもある「旧約聖書」から離れていき、その結果、ユダヤ的観点ではなく、キリスト教的観点に立つことになる。つまり、この書籍を通じて、彼の血統が持つ思想を洗浄したことになる。

<小学校教師>
 復員後、彼はケンブリッジ大学に戻らず、なんと、小学校の教員資格を取得し、ウィーン市の遙か南の片田舎トラッテンバッハ(Trattenbach)に赴任し、1921-23年の間教師をしていた。
 彼の教育思想は、実践を元にするもので、猫の骨格標本や、天体観測、顕微鏡での草花の観察など、本物に触れることを重視している。また、Wien市ヘの建物の見学など、いわゆる「社会科見学」なども実施している。一方で、算数に関しては早い段階から「代数」を教えるなど、どれをとっても理系な人物を育てるのに適した教育課程を考え出している。

 しかし、そうした先進的な教育法は、本来、この数百人しかいないド田舎では教育は必要がなく、反発をかった。また、Wittegensteinは教育に非常に厳しく、常に体罰を与えていた。これは、彼が父親から「期待」を持って常に体罰を受けていたことに起因すると思う。
 教育でどうしても避けられないのは、自身が受けてきた教育を再現してしまうと言うことです。だからこそ、「教育方法」や「教育の質」が必要で、それにより自らが受けてきた教育法を正しい教育法に矯正しなければならないのです。そして、優秀な教師以外、実は教師は必要とはならないのです。つまり、「優秀な教師は優秀な生徒を育てる」ということです。日本のTVドラマにあるような「根性」だけの教育は教育に該当しないのです。その歪んだ絶対指導者を盲目的に崇拝させる教育法の行き着く先は「特攻隊」などの精神性につながるだけです。

 Student Pilotの最初の頃、既定の高度から50ft位離れて飛行していたらガタガタと激しい揺れが襲ったことがある。
 で、教官は
「50ftズレているから揺れるんだよ・・・」
と言うとすぐに、「と、航空大学では、どやされる」と言われた。
 別に正しい1500ftを厳守していたとしても、たった50ftなら揺れは変わらないはず。それに、このレベルでは最終試験の既定でも±100ftは許容範囲。この教官、教育者として僕はもの凄く尊敬している人物。普通なら前半の言葉で罵倒されて終わるはず。だけど、後半がつく。
 この後半の一文には、注意自体が無意味な事→無意味だからこそ、言われずともきちんと守れ→日本の航空教育が未だ大戦当時であること、などを連鎖的に教えてくれる。航空を通じて知った「アメリカの教育方法」がいかに進歩しているか、そして、この教官のように、教育者は才能であり、野球などと同様に、先天的な能力によるところが多く、人により明らかに優劣がつくことも学んだ。日本の教育課程でもアメリカ式の教育理念を実践するが、まだまだ、辿りついてはいない。

 さてさて、幼少期の彼の受けた教育法とは違い、Wittegensteinはその後、素晴しい教師達に出会い、教わってきた。こうした経験から、理科科目などの実践的な教育を施す方法を編み出した。さらに、彼は素晴しいアイディアを発想する。それは、この地方独特の訛りや言語に関する問題点の矯正。「考え」、難しく言えば「論理」は「言語」の上に成り立っている。したがって、言語をきちんと習得しなければ考えも作ることはできない。そこで、Wittegensteinは、こうした訛りを正しいドイツ語に矯正するための「辞書」を作成する。

 タイトルのとおり「辞書」と書かれている。
これを日本のWittegenstein関連の書籍では「正書法辞書」と訳している。確かに、中身はそうした傾向があるけれど、やはり、想定は辞書なのです。そして、そうした解説本の哲学者はドイツ語をそれほど知らないと思われる。確かに、Wittegensteinの書籍は彼がイギリスで教えていたこともあり、かなりが英語でも書かれている。しかし、彼はドイツ語を母国語とするオーストリア人なのです。(後にイギリス国籍を取得するが)

 ドイツには有名なDUDENという辞書の会社がある。

 DUDENの出版の中で、これが「正書法」の辞書です。
タイトルに「ドイツ語」のRecht「正しい」、Schreibung「書き方」とあります。ちなみに、辞書は数多くの言葉を収録しているので中性名詞ですが、この辞書は女性名詞です。
 もし、「正書法辞典」であれば、こうしたタイトルになっていたはずです。

 思い出話で申し訳ないのですが、代ゼミの「ドイツ語受験」クラスの教員は、東京外国語大学奈良文夫先生でした。そんな偉い先生が受験生を教えていたんですよ!でも、逆かも知れません。大学入ってからドイツ語を初級からマスターする外大生と違って、大学別クラスがないだけに難関大学のドイツ語も辞書なしで読めるような受験生ばかりなので、奈良先生もガンガン飛ばしていました。
 先生の持物は、僕らと同じテキストといつもオレンジ色の表面がテカテカと輝く、分厚い辞書でした。

 この辞書は、直訳すれば「スタイルの」となってしまうのですが、中身は、語と語のつながりについて掲載されています。
 つまり、ある単語の正しい表現には、どの単語をつなげれば良いか。どの単語をつなげると、どんなニュアンスになるかが書かれている辞書なのです。奈良先生は、時々、独作文以外でも、突然、辞書を取り上げ何かを検索していました。
 あるとき僕は、その辞書が何者であるかを質問しに行きました。で、辞書の説明より、中身の開いて見せられました。それで、この辞書の役割がよく分かりました。「受験レベルではいらないけど」と、ひと言だけ説明を受けました。その後、今に至るまで、この辞書を手元に置いたことはありません。大学を卒業したら、ドイツ語とも疎遠になってしまったので、もう、今、手に入れても「お飾り」でしかありません。

 手元にあるDUDENの辞書は、だった1冊。
「Rechnen und Mathematik」(計算と数学)という辞書。

 ヨーロッパに短期留学する人に、お土産としてお願いしたもの。学生の頃はインターネットがなかったので、こうしたものは現地まで行かないと手に入らなかったからね。

 思い出した!もう1冊DUDENがあった。
ただ、こちらは辞書ではなくて普通の書籍のような体裁。タイトルは「Wie schreibt man wissenschaftliche Arbaiten」。簡単にいうと、「科学的な仕事をどのように書くか?」というもの。かなり前、講義依頼で、教材を作るために使った。当時は羽振りが良かったようで、謝金のほかに、講義のための準備金もかなりの額をもらった記憶がある。

 内容は、「ゲーム機でどのような「音」を使うと効果的なのか?!」、みたいな演題だった。ある日の午後、3時間ぐらい使って講義した。そんなの分かっているでしょう。「ギュイーーーン」と音が上がれば気持ちも上がる。それだけのこと。だけどそれだと面白みがないので、いろいろな切り口から講義をした。その中のひとつが、この本を求める理由ともなった「修辞法」。

 この「修辞法」(レトリック、Rethorikドイツ語ではレトーリクと伸びる)という事柄自体も、やはり、奈良先生から教わった。ただ、受験生のレベルだし、基本的に古典文学は単語が難しく、出題されないので、あまり深く聞いた覚えはない。簡単に言うと、ものごとを文章で表現するとき、どのようにすると、相手にどう伝わるかということ。たとえば、「キレイだ、その花は!」は、通常の文章で、前後を入れ替えているので「倒置法」という。こうした技法が100以上存在している。ヨーロッパではギムナジウムのような大学に進学するための高校では、こうした授業があり、大学入試をかねる「卒業試験」でも出題される。そしてその講義の潤沢な予算で日本で唯一の「レトリック辞典」を購入。辞典と言っても、ノウハウが書かれているものなので、薄い!!だから、安い!!

 Wittegensteinの辞書をその内手に入れて、本当はどのような辞書なのか、内容を検証してみたいと思う。

 で、周辺の肉付けも多く、長くなったのでWittegenstein31歳で、ここで、一度、終わりにします。
 まだ、『論理哲学論考』にひとつも触れていないけど。