日本のシラバス、教員資格

 教員をしていると、年に一度、シラバスを書かされる。

1990年代から流行り始めたもの。そもそもは、アメリカの大学で行っている授業内容について書かれていたものを、意味を取り違えて輸入した。

 今では、どの大学でも書くようになり、その書くと言うことが文部科学省からのノルマのようになってしまっている。しかし、その際の書式の要件などは何も提示されていない。

 

<そもそもシラバスとは>
 そもそも元祖のシラバスの役割は、学生に対して何を講義するかを提示するものだけど、その役割は、同じ講義科目で、どの先生の講義を取るべきかという際の「カタログ」の役割。そう、単なる品定めの道具。同じ講義でも、どちらの先生の授業の方が自分にとって有用か?どちらの方が事前準備が少なくて済むか?どちらの方がレポートが楽そうか?等などを読み取る。
 教員は、授業内容や細かな約束を開示することで、学生を多くかき集める。その意味は、受講者数で給与が決まるから。だから教員は必死になって他の先生よりも「良い授業」をしようとするし、学生に取って有用な授業をして、結果、多くの学生を集めることともなる。
 この原理が日本には輸入されることなく、形だけが持ち込まれている。

 以前、NHKで放映されたマイケル・サンデルハーバード白熱教室
ハーバード大学の中でも人気の講義で、教室には入りきらないので、会場はホール。
 この人数を考えると、サンデル教授の授業からの年収は2億円程度にはなるはず。
逆に、無給でも雇われる講師制度は、若手の登竜門としての役割がある。そこで有能であれば翌年からは有給になり、下手をすればいきなり教授なんてこともある。

 教育者同士が、そうして競うことで教育内容が上昇していく。

 しかし日本はどうだろうか?
形だけのシラバスを輸入して、その本来の目的である、学生に品定めをさせて教員間で競うという部分が欠落している。まあ、日本でこれを導入すると長老の教員はたちまち学生を抱えることが出来なくなり、人数で配当され報酬が減り、居場所がなくなる。それでも、研究職という大学のもうひとつの分野で成果を出していれば良いのだけれど、往々にしてそのような方は高圧的で、学生達に自分の研究を押しつけ、自身の成果は少ない。

 

シラバスを公開する、なぞ>
 今では、文部科学省からのお達しで、どこの学校もバカみたいにシラバスを公開している。シラバスとは、その教員が手塩にかけて育んできた教育技法の塊。それを無償で世間に公開すること。まったく信じられないことがこの国では起きている。どこかの素晴しい先生のシラバスをそっくりそのまま実行すれば、良い授業の「骨」が出来上がる。調べると、素晴しい先生方は、そこら辺の所を熟知していて、上手いことザックリとしか書いていませんね。(アメリカの例。ハーバード大学シラバスの例)


 で、アメリカでは「シラバスの公開」なんてことは絶対にしません。
たとえば、これはハーバード大学シラバス検索の入口。

 で、ここからシラバスを見ようとすると、ハーバード大生に配布されているKey、つまりIDが必要になって、外部の者には見せない仕組み


 あったり前のことだけと、それが日本では勘違いされている。

 

<実務家教員の弊害>

 大学教員になるためには、内部からなるのも中々大変だったものを、ある時期から「実務家教員」という、いわばサラリーマンでも大学教員になれるルートを築いた。
 本来は、「産学連携」とかの合い言葉のもと、もっと、大学で研究したことを産業界にも行かせる、その橋渡しになると願って取り入れられた。
 また、大学側としても、企業にいた方なので就職先の恩恵が受けられると目論み、実務家教員を積極的に採用してきた。なので、どこの大学にも、NHK、大手商社、銀行マンなどの卒業者達がウヨウヨしている。

 結果、まったく役に立たない
それまでの企業という縦社会と違い、大学という教育機関は比較的平坦にできている。もしくは、分野が違えば関係することもない。同じ分野でも、シラバスの本当の意味がないので、互いの教育内容に対して批判し、切磋琢磨することもない。そんな中に企業マンを投ずれば、「教授」というさして高くもない称号をかざし、猛威をふるう。すぐに、その企業内カースト的な強勢を張る実務家教員は、教員、職員すべてに無視される。
 それでも、運営者側は著名な企業の人材を広告塔として、戦場から消えていった分を次々と繰り返し、繰り返し採用をしていく。

 もし、その教育機関がきちんと教育を施しているかどうかの判定が必要な時には、例えば大学選択などで、その大学の実務家教員の割合を見れば良い。一流大学では低く、Fランク大学では、ほとんどが実務家教員となる。
 あなたは、自分の大切なご子息様を、過去の自慢ばかりする、「教育技法」も「教育内容」もない教員達に託したいだろうか?

 

 

ドローン国家資格

 2022.12からドローンに対する法整備が進み、資格なしでは今までのように自由に飛ばせない時代が来た。

 あまり知られていないけど、これまでも、農地などに農薬を撒くヘリコプターのようなラジコン機が使われていた。(YAMAHA Fazer R)

 それ以前は、本物のヘリコプターで農薬を撒いていたけど、小回りが利き、より安価なこうした機体が使われるようになっている。そして、そこに登場したのがドローン
 最初は子供のおもちゃとしてヒットしたけど、それと同時にカメラを載せて空撮に使い始めた。それまでの空撮は、やはり本物のヘリでの撮影方法を経て、パラグライダーでの撮影が主流となっていた。ただ、撮影で無茶をするためかパラグライダーの墜落事故が多過ぎた。

 

国家試験の難易度
 この国家試験が始まるためか、周囲でこの話題になることが良くある。みんな、ドローンを飛ばして撮影をしてきた人々や養成スクール関係者。
 で、「一等」と言われる上級資格のサンプル問題解説を依頼された。
いやーー、難問。一問目のレベルは、本物のヘリコプターのライセンスのそれも「事業用」レベル。2問目は、無線に関する問題で、同様の問題を調べてみると「第1級陸上特殊無線」レベル。これは、ドローンを気軽に飛ばしてきた人々や、民間で独自の資格を与えてきた人々では当然太刀打ちができない。

 

 ただ、これは考えれば当たり前なこと。
本来そうした仕事は使用事業として航空関連会社が担ってきた仕事。なので、同じ事を同じ「空」と言う場所を使って仕事にするには、航空業界の「事業用」資格が必要なことは当然。空の世界では「自家用ライセンス」で撮影して報酬得ることができない。違法行為となる。

 

 また、今は特定の機能を使うときに求められる無線資格も、航空機の有人操縦資格者と同じく、将来は必須の資格になると予想できる。つまり、日本国内で航空機を操縦(練習も含めて)するには必ず無線のライセンスが必要なのです。(アメリカでは飛行機の操縦に無線のライセンスは必要ありません)

 

<同じ領域は同じ資格で>
 ラジコンカーを公道で走らせたらどうなるだろうか?
交通ルールも守らず、赤信号は止まらず、好き勝手に逆走をしたらどうなるか?最近では、原動機付き自転車が出てきて、それは、アシスト付き自転車とは違い、れっきとした小型車両。なので免許が必要になる。

 これは空の上でも同じこと。
同じ空域を自分勝手に物体がいたら、本来の航空機がたまらない。

 

<近い将来は>
 結局、ライセンス化するけど、手軽な空撮程度なら、今まで通りか、申請すればなんとかなる。「一等」の国家ライセンスが必要となるのは、突き詰めれば「物流」をする場合。つまり、それが「第三者の上空を・・・」とかの文章になっている。
 となると、
この資格が必要な人は、ドローンを使って宅配を考えている人々だけになる。ただ、現時点でドローンの飛行時間は30分程度なので、片道15分。マージンを含めると片道10程度。目と鼻の先にしか配達ができない。それに対して、無人ヘリでは小型エンジンなので、飛行時間が延長できる。その上、燃料はガソリンなので簡単に給油もできる。

 まずは、離島や山間部などへの物資輸送で活躍が予想される。そうなると、機体は多少大型の25kg以上になるはず。 

 

<試験のレベル>
 恐らく、開始当初の現在の試験問題は閾値を下げると思う。ゆくゆくは、物流を扱う「一等」に関しては、航空機の資格と同等にしてくるはず。この資格の有効期間が3年であることを考えると、今はドローン風に問題ができていても、年々航空機に水準を合わせて国土交通省が出題のレベルを上げてくるのが予測できる。
 なので、既存のドローンしか知らない講師に習っていては、3年後には合格できない。きちんとして航空業界の有資格者から学習を受ける必要がある。
 ただ、繰り返すと、物流でもしない限り一等という資格は必要がない。

ヴィットゲンシュタイン(1)

 「好きな作曲家は?」と言う質問をよく受ける。
なので、お行儀の良い答えを用意している。すぐに答えるのは「Webern」(ヴェーベルン、1883-1945)。

 12音技法を作り上げた作曲家Schönbergの弟子の一人。もう一人の弟子Bergが最後まで「調性と12音音楽との結合」を試みていたのに対して、Webernは未来を向いていた。12音技法が「音の高さ」にのみ着目しているのに対して、「音の長さ(音価)」、「強さ(強度)」、「音色」にまで発想を展開させている。そのため、緻密に組上げられた曲は極めて短く、そして、生涯を通じての作品数も31曲と寡作である。

 Webernは絶対に音楽史で学ぶ重要人物だけど、現代音楽の入口なので、教える側がその重要性を理解していないと、名前を紹介しただけで通り過ぎる。だから、音大で教育を受けた音楽家にとっても??な作曲家。そこで、もうひとつ、分かりやすい人物を用意している。

 「Scriabin」(スクリャービン、1872-1915)。
ピアノ音楽を得意とするロシアの作曲家。ショパンに傾倒し、Chopinのような曲ばかりを初期には書き綴っている。そして、途中から精神の落ち込みと共に、「神智主義」思想にドはまりし、その頃から超おもしろい曲を書き始める。その音楽では「神秘和音」と呼ばれる新しいタイプの和音が、やはり中期から使われ、名前の通り「神秘主義」などと呼ばれる。

 先日、後輩でとても仲の良いピアニスト黒田亜樹さんが連続して、本人と弟子達でScriabinの小さなコンサートを連続して開いた。(201.12)
 学生時代、彼女の実家に1週間くらい住み込んでピアノのレッスンをして、コンクールを受けに行ったこともあるくらい仲が良い。それほどまでに、仲も良いし、彼女は僕のことを音楽的に絶大な信頼を寄せてくれている。(だが、彼女ではない!)

 その後、スペインだかのコンクールで優勝して、現代音楽を演奏するピアニストとして確固たる地位を築いた。
 旦那様は、杉山洋一という作曲家・指揮者。普通にコンサート指揮者として活躍しているし、2021年には作品が芥川賞」候補に選ばれた。そして、その演奏審査の指揮者は自らすると言う、これまでに誰もしなかったことになった。良い旦那を捕まえた!
 そして、彼らは基本的にイタリアに住んでいる。
(最近、週刊新潮に出た記事)

 Scriabinは「推し」なので話しは長くなるけど・・。短めに。

 彼は、なんとRachmaninoffと同学年。いつも、Rachmaninoffの方が成績「1番」で、Scriabinは2番。これを7歳から続けられているので、青年期には当然「いじけ」てしまう。そうなるとますます審査員の先生方に嫌われる。この「いじけ」も彼の音楽的成長には必要だった。
 また、Scriabinは、ピアノだけではなく管弦楽曲も相当に優れている。
特に交響曲第4番『法悦の詩Le Poème de l'extase)』(1908)、第5番『プロメテ-火の詩( Promethée, ou le Poème du Feu)』(1910)はよく演奏される。
 4番のタイトルが「法悦」となっているけど、これは原題を使うわけには行かないので仏教用語の「悟りの境地に達したときの心境」を表わす用語を使っている。しかし、実際には文字通り「エクスタシー」なのです。

 芸術とは「」なのです。生には「誕生」があり、その終着点は「」なのです。したがって、「生」とは「死」を含み、それを表現するのが芸術とされています。この定義は日本ではまったく伝わっていない。それこそ、世界中の美術市場を荒らしまくっている村上隆(1962-)などは、当然そのことを理解している。理解しているからこそ世界中で受けている。で、その「生」を産むものは「」つまり「エロス」なのです。かつての芸術家はそのことを強く認識することはなく『ビーナスの誕生』(1483?)などの絵を描いていました。しかし、1900年代初頭となると、それを突き詰めた「芸術論」が完成し、それに従って「芸術」が創作されるようになったのです。そうした時代だからこそ、Scriabinの作品には赤裸々な性表現の作品が多いのです。

 5番『プロメテ』では、「色光ピアノ」という、鍵盤を叩くと音と同時にライトから色が出るものを使っている。
 今から訳100年前の当時は演奏がかなり困難だったけど、現代の電子機器を使えば難なく再現できる。単に「音」だけではなく、ほかの感覚分野を巻き込んでいる。さらに続けて構想していた未完の作品では「香」をだす計画だった。
 
 どうですか?Scriabin聴きたく(見たく?)なりませんか?

 話し戻って。
 黒田アキの絡むScriabinのコンサートなら行かないわけには行かない!
1日目は、Scriabinの初期の小品と彼の尊敬していたChopinの作品で構成されていた。2日目は、中期以降の、つまり神秘主義になってからの曲がメイン。最後のソナタとなった『ピアノソナタ第10番』も演奏され、充実の演奏会だった。

 2日目の最初は、やはり小品ではじまった。最初期の「カノン」が演奏された。
さすがに一流ピアニストが弾くと、音楽技法としての「カノン」という曲が、名曲となって甦ってくる。ここしばらく、ピアノとは遠ざかっていた・・・と言ってもコンクールなどのレッスンは続けていたが・・・やはりここ数十年のピアニストの技量の向上は凄まじい。

 それぞれのピアニストは、「誰かの曲」と「Scriabinの曲」を弾く。
たとえば、「ChopinとScriabin」とか、「初期と後期」の曲とか、同級生であった「Rachmaninoffの曲」と、などなど、楽しませてくれた。

 あるピアニストが「左手のための2つの小品」を演奏した。
「そんな曲があったなー」と曲を聴きながら思い出していた。Scriabinは20歳の頃、練習をし過ぎて右手を痛めてしまった。でも、そんなことでめげる人間ではない。使えない右手を無視して、「それならば!」と左手の強化に励んで、こうした曲まで書き上げている。


<左手のための曲>
 案外世の中、左手のための曲というのは多くて、それも大作曲家が数多く書いている。中には、Ravelの『左手のための協奏曲』(1930)などの名曲ある。

 これらの作品は、Scriabinのように自分のために書いたのではなく、第1次大戦で右手を失ったピアニスト、Paul Wittegenstein(1887-1961)のために作曲されている。ラヴェルブリテンヒンデミットプロコフィエフ、Rシュトラウスなども彼たのめに曲を提供している。それ一流のピアニストであったと分かる。

 戦争などで手足などを負傷した場合、現代でもそうであるけど、その患部から感染が血管を通して広がる可能性があると敗血症となり、死亡してしまう可能性がある。(血液は無菌である。そこに細菌が紛れ込むと一瞬のうちに脳を含む全身に菌が回ってしまい多臓器不全となり、死に至る)こうした際には、その部位を根元から切断して敗血症での死亡を食い止める。その方法はローマ時代あたりで既に確立されていた医療技術と考えられる。「戦場」だからほかに治療法がないのではなく、現代でも交通事故などで同じような状態の場合、その原始的な「切断」という処置が普通の治療法として成される。

 この「左手だけのピアニスト」Paul Wittegensteinがいたために、近代では多くの「左手のため」の作品が存在する。

 現代においては、戦争や事故よりも片手を失うのは脳障害によるものが多い。
手は存在しているけど、神経が伝達されず、麻痺を越えて硬直する。特に、現代では医学が発展して、脳梗塞や脳溢血などで、即、死に至ることは少なくなって来ている。その代わり、脳の一部の機能が失われた状態になる。
 脳と体の神経は左右逆転してついているので、右脳の障害は左手・足に出る。もっとも失うと大きく感じられるものは、左の側頭部にある「言語野」。この付近で損傷が起こると右手・右足に症状が現われると同時に、言葉がしゃべれなくなってしまう。これは、運動機能を失ってしまうことよりも、人間としての存在が極端に失われる。やはり、人間と猿との違いは「言語」を持つかどうかにあるので。
 男性は左脳をやられる確率が高いらしい。
となると、右側に麻痺が起こり、程度の差こそあれ会話も十分に出来なくなる。「左手のための」と言うことは、このケースに該当する。

 日本人ピアニストにも同様に病気により右手を失った、正しくは、右手の機能を失ったピアニストが存在する。
 館野泉(1936-)。北欧の作曲家の作品を専門に演奏するピアニストとして名が売れていた。実際、奥様はフィンランド人。2002年、コンサート終了後に脳溢血に襲われ右半身麻痺となってしまった。しかし、症状が軽かったのと、もの凄い努力により翌年にはリハビリレベルだけれど復活している。その後、さらに演奏会に耐えられるようにリハビリを続けると同時に、日本人の作曲家に「左手のため」の曲を数多く依嘱している。 

 驚いたことに、館野さんの依嘱曲の中に知り合いが2人もいる。
どうして、どこから、そんな話しが行ったのかが不明だけけれど、恐らく、それぞれは別々な経路から依嘱されたのだと思う。(なぜ僕には来なかったのか??・・・大体、こういう場合には自分だけの仕事を確保するために他の人を紹介しない。僕は弟子などを紹介するけどね!)

 中でも『サムライ』という曲は、館野さん自身も気に入り、多くの演奏会で取り上げているだけではなく、マスメディアや皇族の前での演奏の際にも選曲されている。また、音楽事務所の館野さん自身のプロモーション動画でも使われている。
 光永浩一郎作曲『サムライ』

 

<ある日突然>
 ある日突然、ヴィットゲンシュタインに絡まった。
そう、左手のピアニストPaulのがなんと、哲学者Wittegensteinなのです。

 Ludwig Wittegenstein(1889-1951)は、オーストリアハンガリー2重帝国のウィーンで生まれ、イギリスで活躍した言わずと知れた20世紀前半を代表する哲学者。

 父親カール・オットーは、当時ヨーロッパ中の鉄鋼カルテルを率いる、ヨーロッパでも抜きん出た富豪であった。
 Wittegensteinの兄弟は、出産時になくなった子供も入れると9人。本人は、その9番目の末っ子になる。上の兄5人の内、3名が自殺をしている。そうした形質は本人も受け継いで、常に自殺衝動に駆られていた。そして、すぐ上の兄Paulは左手のピアニスト。
 彼の家はとてつもなく裕福なので、芸術家達も出入りしていた。そして援助もしていたらしい。その中にはBrahmsまで含まれている。また、絵描きも同様に出入りしていたクリムトは姉マルガレーテの肖像画を描いている。(1905)

 そうした環境の中で育っているので、誰もが音楽を初めとした芸術の才能を開花させていった。


<教育>
 Wittegensteinの名著と言えば、前半に書いた『論理哲学論考』。(1921年出版)

 なんと、第1次世界大戦下で、まさに土豪の中などで書いている。
よく、電車の中の方が読書が進む、とか言われるけど、その究極版。砲弾が飛び交い、死が隣り合わせ方が思索にふけれるらしい。で、戦後、フィヨルドに借りた山荘に籠り、一気に書き上げる。

 ただ、その後、この書籍を出版するのに、もの凄く苦労をしている。
実は大戦前に、父親が亡くなっていたので、その莫大な「遺産」を継ぐことができたが、戦争から帰ると、遺産をすべて放棄してしまった。そのお金があれば、この本1冊くらい出版するのは何でもないことだったのに・・・。

 彼の受けた教育は、当時の裕福な家庭に良くあるように、家庭教師を家に呼び、そこで初等教育を受けている。その後、リンツにある「実科学校」に進学し3年間学んでいる。このとき同じ校舎にはヒトラーも学んでいた。時代というか、とにかく、著名人が彼の周りには目白押しで登場してくる。これは、やはり彼が元々「家」を通じて受けた「」ではないかと思う。確かにBrahmsらと出会ったのは「家」の持つ「財」のつながりだったかも知れないけど。

 そして、熱力学のボルツマン(1844-1906)の講演を聴いてウィーン大学進学を希望するけど、ボルツマンの自殺により、直接の指導は受けられなかった。その理論から航空力学に傾いていく。そもそも、熱力学は、航空機にとってあちこちで必要な理論で、さらにこの当時開発途上のジェット推進エンジンなどにも応用ができる。その後、ベルリンの「シャルロッテンブルグ工科大学」を経て、イギリスの「マンチェスター大学」へ進学している。現代でも物理学分野では「熱力学」は難解な分野のひとつ。その中身は「統計力学」となり、量子力学の入口へとつながる。したがって、そこでは数多くの数学的知識を必要とする。Wittegensteinは、そのことからさらに、この数学、もしくは「数学論」に興味を持ち始め、さらに「論理学」ヘと興味は進む。 

 紹介を受けて「ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ」の教授であったRuselle(バードランド、ノーベル文学賞受賞、1872-1970)の元で「哲学」を正式に学びはじめる。また、同時にMoore(1873-1958)にも哲学を学んでいる。そう、「ムーア・パラドックス」のムーアさん!また、学内では、マクロ経済学の父Keynes(1883-1946)とも出会い、ケインズは生涯Wittegensteinを尊敬している。やはり、次々と凄い人の名前が出てくる!!

 

<戦争と信仰>
 1914年、第1次世界大戦では健康上の理由から徴兵を免れたのに、自ら志願して戦場に向かった。
 ピアニストの兄Paulの負傷の知らせを受け「哲学の何が役に立つのか!」と疑念を募らせる。その頃、偶然にであっ会ったトルストイ(1828-1910)の『要約福音書』を読み、再び信仰を取り戻す。トルストイ自身も、裕福な生活から貧困な生活に自らを置き、清貧として生涯勤めている。

 そうした姿勢は、戦後のWittegensteinの行動に強く影響をもたらした。この短書のもとは『4福音書の総括と翻訳』。4福音書とは、「マタイ伝」、「ヨハネ伝」、「マルコ伝」、「ルカ伝」の4つの新約聖書。この書籍を読むためには、当然その前提となる「新約聖書」の知識が必要となる。「聖書」自体はそれほど苦労しなくても、戦場でも手に入るだろう。この「新約聖書」の研究によって、彼は知らぬ間にユダヤ教聖典でもある「旧約聖書」から離れていき、その結果、ユダヤ的観点ではなく、キリスト教的観点に立つことになる。つまり、この書籍を通じて、彼の血統が持つ思想を洗浄したことになる。

<小学校教師>
 復員後、彼はケンブリッジ大学に戻らず、なんと、小学校の教員資格を取得し、ウィーン市の遙か南の片田舎トラッテンバッハ(Trattenbach)に赴任し、1921-23年の間教師をしていた。
 彼の教育思想は、実践を元にするもので、猫の骨格標本や、天体観測、顕微鏡での草花の観察など、本物に触れることを重視している。また、Wien市ヘの建物の見学など、いわゆる「社会科見学」なども実施している。一方で、算数に関しては早い段階から「代数」を教えるなど、どれをとっても理系な人物を育てるのに適した教育課程を考え出している。

 しかし、そうした先進的な教育法は、本来、この数百人しかいないド田舎では教育は必要がなく、反発をかった。また、Wittegensteinは教育に非常に厳しく、常に体罰を与えていた。これは、彼が父親から「期待」を持って常に体罰を受けていたことに起因すると思う。
 教育でどうしても避けられないのは、自身が受けてきた教育を再現してしまうと言うことです。だからこそ、「教育方法」や「教育の質」が必要で、それにより自らが受けてきた教育法を正しい教育法に矯正しなければならないのです。そして、優秀な教師以外、実は教師は必要とはならないのです。つまり、「優秀な教師は優秀な生徒を育てる」ということです。日本のTVドラマにあるような「根性」だけの教育は教育に該当しないのです。その歪んだ絶対指導者を盲目的に崇拝させる教育法の行き着く先は「特攻隊」などの精神性につながるだけです。

 Student Pilotの最初の頃、既定の高度から50ft位離れて飛行していたらガタガタと激しい揺れが襲ったことがある。
 で、教官は
「50ftズレているから揺れるんだよ・・・」
と言うとすぐに、「と、航空大学では、どやされる」と言われた。
 別に正しい1500ftを厳守していたとしても、たった50ftなら揺れは変わらないはず。それに、このレベルでは最終試験の既定でも±100ftは許容範囲。この教官、教育者として僕はもの凄く尊敬している人物。普通なら前半の言葉で罵倒されて終わるはず。だけど、後半がつく。
 この後半の一文には、注意自体が無意味な事→無意味だからこそ、言われずともきちんと守れ→日本の航空教育が未だ大戦当時であること、などを連鎖的に教えてくれる。航空を通じて知った「アメリカの教育方法」がいかに進歩しているか、そして、この教官のように、教育者は才能であり、野球などと同様に、先天的な能力によるところが多く、人により明らかに優劣がつくことも学んだ。日本の教育課程でもアメリカ式の教育理念を実践するが、まだまだ、辿りついてはいない。

 さてさて、幼少期の彼の受けた教育法とは違い、Wittegensteinはその後、素晴しい教師達に出会い、教わってきた。こうした経験から、理科科目などの実践的な教育を施す方法を編み出した。さらに、彼は素晴しいアイディアを発想する。それは、この地方独特の訛りや言語に関する問題点の矯正。「考え」、難しく言えば「論理」は「言語」の上に成り立っている。したがって、言語をきちんと習得しなければ考えも作ることはできない。そこで、Wittegensteinは、こうした訛りを正しいドイツ語に矯正するための「辞書」を作成する。

 タイトルのとおり「辞書」と書かれている。
これを日本のWittegenstein関連の書籍では「正書法辞書」と訳している。確かに、中身はそうした傾向があるけれど、やはり、想定は辞書なのです。そして、そうした解説本の哲学者はドイツ語をそれほど知らないと思われる。確かに、Wittegensteinの書籍は彼がイギリスで教えていたこともあり、かなりが英語でも書かれている。しかし、彼はドイツ語を母国語とするオーストリア人なのです。(後にイギリス国籍を取得するが)

 ドイツには有名なDUDENという辞書の会社がある。

 DUDENの出版の中で、これが「正書法」の辞書です。
タイトルに「ドイツ語」のRecht「正しい」、Schreibung「書き方」とあります。ちなみに、辞書は数多くの言葉を収録しているので中性名詞ですが、この辞書は女性名詞です。
 もし、「正書法辞典」であれば、こうしたタイトルになっていたはずです。

 思い出話で申し訳ないのですが、代ゼミの「ドイツ語受験」クラスの教員は、東京外国語大学奈良文夫先生でした。そんな偉い先生が受験生を教えていたんですよ!でも、逆かも知れません。大学入ってからドイツ語を初級からマスターする外大生と違って、大学別クラスがないだけに難関大学のドイツ語も辞書なしで読めるような受験生ばかりなので、奈良先生もガンガン飛ばしていました。
 先生の持物は、僕らと同じテキストといつもオレンジ色の表面がテカテカと輝く、分厚い辞書でした。

 この辞書は、直訳すれば「スタイルの」となってしまうのですが、中身は、語と語のつながりについて掲載されています。
 つまり、ある単語の正しい表現には、どの単語をつなげれば良いか。どの単語をつなげると、どんなニュアンスになるかが書かれている辞書なのです。奈良先生は、時々、独作文以外でも、突然、辞書を取り上げ何かを検索していました。
 あるとき僕は、その辞書が何者であるかを質問しに行きました。で、辞書の説明より、中身の開いて見せられました。それで、この辞書の役割がよく分かりました。「受験レベルではいらないけど」と、ひと言だけ説明を受けました。その後、今に至るまで、この辞書を手元に置いたことはありません。大学を卒業したら、ドイツ語とも疎遠になってしまったので、もう、今、手に入れても「お飾り」でしかありません。

 手元にあるDUDENの辞書は、だった1冊。
「Rechnen und Mathematik」(計算と数学)という辞書。

 ヨーロッパに短期留学する人に、お土産としてお願いしたもの。学生の頃はインターネットがなかったので、こうしたものは現地まで行かないと手に入らなかったからね。

 思い出した!もう1冊DUDENがあった。
ただ、こちらは辞書ではなくて普通の書籍のような体裁。タイトルは「Wie schreibt man wissenschaftliche Arbaiten」。簡単にいうと、「科学的な仕事をどのように書くか?」というもの。かなり前、講義依頼で、教材を作るために使った。当時は羽振りが良かったようで、謝金のほかに、講義のための準備金もかなりの額をもらった記憶がある。

 内容は、「ゲーム機でどのような「音」を使うと効果的なのか?!」、みたいな演題だった。ある日の午後、3時間ぐらい使って講義した。そんなの分かっているでしょう。「ギュイーーーン」と音が上がれば気持ちも上がる。それだけのこと。だけどそれだと面白みがないので、いろいろな切り口から講義をした。その中のひとつが、この本を求める理由ともなった「修辞法」。

 この「修辞法」(レトリック、Rethorikドイツ語ではレトーリクと伸びる)という事柄自体も、やはり、奈良先生から教わった。ただ、受験生のレベルだし、基本的に古典文学は単語が難しく、出題されないので、あまり深く聞いた覚えはない。簡単に言うと、ものごとを文章で表現するとき、どのようにすると、相手にどう伝わるかということ。たとえば、「キレイだ、その花は!」は、通常の文章で、前後を入れ替えているので「倒置法」という。こうした技法が100以上存在している。ヨーロッパではギムナジウムのような大学に進学するための高校では、こうした授業があり、大学入試をかねる「卒業試験」でも出題される。そしてその講義の潤沢な予算で日本で唯一の「レトリック辞典」を購入。辞典と言っても、ノウハウが書かれているものなので、薄い!!だから、安い!!

 Wittegensteinの辞書をその内手に入れて、本当はどのような辞書なのか、内容を検証してみたいと思う。

 で、周辺の肉付けも多く、長くなったのでWittegenstein31歳で、ここで、一度、終わりにします。
 まだ、『論理哲学論考』にひとつも触れていないけど。

2022共通テスト 外国語「ドイツ語」勝手な私見

 代ゼミ河合塾などが発表する「出題分析」と「解答解説」を見習ってやってみた。
 

 かつてドイツ語で大学受験をした自分にとって、現在のドイツ語共通テストはどのように進化しているのかが気になった。
※2021年問題は「代ゼミ毎日新聞)」より取得

 出題意図については、最近の何でも文章として表示する行政主義に従って、時間が経つと大学入試センターから発表される。
 しかし、出題を担当する大学のドイツ語教員は、全国のドイツ語の大学入試問題を一覧として見ていない。かつての代ゼミのドイツ語・フランス語「受験クラス」担当教師でもない限り、過去問にまで遡って各大学の傾向を知らない。

■出題傾向
大問数:7問、設問数:45問、解答数:51問
第1問:<選択>発音、語彙
第2問:<空所選択>文法
第3問:<語選択>独作文
第4問:<選択>会話文
第5問:<選択>会話文
第6問:<選択>物語文
第7問:<選択>説明分

 ドイツ語の出題では、「共通テスト」の新しい指針が示すような、ドイツ語を使った社会や学校などの具体的な場面での応用に対する出題に乏しく、依然として旧来の出題形態が取られている。たとえば英語の場合、発音や文法などに関する問題はすでにない。
 さらに英語では、大問7問のすべてで図表などが提示され、そこから読み解く設問、つまり、実践的で応用的な出題に移行している。それに比べてドイツ語の場合には、図表が提示されている問題が大問で3問あるが、第4問は地図を選択する解答で、第5問、第6問は挿絵レベルとなっている。したがって、図表から読み解くような応用問題は出題されていない
 さらに、本年も英語以外の外国語では「リスニング」の出題がない
受験生の数が少ないので作成に費用がかかるのが実際の理由だろうけど、受験を通じて語学の総合能力を向上させるためにも出題が求められる。また、英語との共通化を今、図らなければ、いずれ英語以外の外国語は切り捨てられる可能性もでてくると予測する。ただし、中国語、韓国語は近年の大学での語学教育の傾向や、近隣諸国との政治的関係を考えると、この2言語は生き残るのではないかと予想する。 
 ちなみに、外国語をドイツ語で受験する人数は例年120名程度。

 現代ドイツ語は変化も早く、辞書に載っていない単語も多いが、「雑誌」や「ニュース」、「TV」や「映画」など、現代に即した内容の出題も期待している。
 また、一方で、古典文学は文法や単語など現代とは異なる部分が多いが、たとえば、有名な歌曲に使われている「詩」であるとか、「名著」の一節を出題することはドイツ語文化と触れあう上でも大切だと考える。

 まずは、指針が示すような応用的な出題に即して欲しい。

 

■出題数、ジャンル
第1問:7問(21点)
 問1ー3:発音を問うもの
 問4ー6:動詞の変化、複数形に関する問題
 問7:名詞の種別
第2問:8問(24点)文法、語彙選択(穴埋め1カ所)
第3問:4問(20点)独作文。空所補充(語順並べ替え2カ所)
第4問:7問(40点)会話文(前後2文)
第5問:6問(30点)会話文、メール、SNS
第6問:5問(30点)物語文
第7問:7問(35点)説明文

■問題難易度
 英語の解答数48問に比べて若干多い程度の51問。全体の難易度は易しい。解答時間は英語のリーディング時間と同じ80分。出題量は適切な分量。他の共通テストのように問題量で難易度を上げるようなことはしない。
 また、大学入試センターが発表している「問題作成方針」の中では、
「高等学校において英語以外の外国語を初め て履修する者もいることを考慮し,問題作成を行う」
 と明記されている。つまり、英語と違い初級文法終了程度を想定しているのか?そのような点を踏まえ、英語との差を詰めたためか、本年度の「フランス語」の平均点は落ちた。
 初級文法が範囲となると、受験指定科目が「英語」ではなく「外国語」指定であれば、ドイツ語かフランス語で受験する方が高得点が確約されるのではないだろうか?

■ドイツ語検定との比較

ドイツ語検定」(独検)と比較すると、レベル的にはドイツ語検定3級相当。

 独検では各級ごとにレベル設定がきちんとなされている。それによると、3級は学習時間120時間、単語数2000語と設定されている。
 https://www.dokken.or.jp/about/level.html

 この学習時間数を高等学校「英語」と比較する。「英語」(外国語)の時間数は文部科学省「学習指導要領」に規定されている。現在の高等学校における英語の学習単位数は、「コミュニケーション」、「英語表現」、「会話」すべてを合わせると21単位。要領には「35単位時間の授業を1単位として計算する」とあるので735単位時間となる。1単位時間は50分授業と規定されているので、これはそのまま授業回数とみることができる。ドイツ語は第2外国語扱いになるので、仮にその単位数が半分とした場合、授業回数は368回になる。時間換算で約307時間。(これは高校3年間での数)十分に「独検3級」が想定する120時間を優に超えていることになる。

 だとすると、高校でのドイツ語学習は十分な時間となるのか?
独検の見積もっている時間数と学習指導要領の時間数とでは大きな違いがある。その原因は語学に対する「到達目標」の違いか?
 前提とした「高校英語」の場合には、最近の社会情勢を考え、英語の授業時間を大幅に増加させている。「数学」と比較しても「数IからIII」、「数A,B」をすべて含めて16単位しかない。実際には数IIIや数学Aなどは学習しない現状では9単位にしかならない。これだけ英語を学習しているけど語学能力はどう伸びたのだろうか?実際、英語の授業時間も「コミュニケーション英語」という科目が大半を占めている。以前から言われ続けられている日本人の英語でのコミュニケーション能力不足や、現在日本の社会で求められているTOEICの出題形式を見据えたものにしか思えない。
 一方、大学での新しく履修する「外国語」の授業を見ると、前半2年間で「初級文法」と「ある程度の読解」を可能にしたレベルに仕上げ、後半の専門課程での「資料の読み取り」や「原書講読」などに進めるように目標を設定する必要がある。したがって、やや促成栽培ではあるけれど、「独検2級」の180時間(90分で120回)想定にも合致している。現在大学の授業回数は文部科学省の規定から年間30回と厳格に規定されているので4コマ分となる。年間2コマの履修で2年間という現実的な設定だけれど、実際の到達レベルには超一流大学生の頭脳以外で、2年間で「2級」までたどり着ける者がいるのだろうか?(3級だとしても)
 
https://www.dnc.ac.jp/albums/abm.php?f=abm00038189.pdf&n=令和3年度大学入学者選抜に係る大学入学共通テスト問題作成方針(令和2年1月29日一部変更).pdf

■CEFRとの比較

 ドイツ語検定ではCEFRとの比較を発表している。CEFRは欧州評議会が制定した各言語の共通レベル設定で、現在では広く「学習段階設定」にまで応用されているもの。これで見ると3級は初級文法終了レベルの「A2」、2級は中級レベルの入り口「B1」となっている。当然のことだけど、レベルと試験問題の内容が一致している。ちなみに、ヨーロッパへ留学(大学レベル)する際に求められる語学のレベルは中級終了程度の「B2」。

ヨーロッパ言語共通参照枠 - Wikipedia ja.wikipedia.org  

■想定される受験生

 ドイツ語で受験する生徒はどのような人物なのだろうか?
もちろん、高校でドイツ語の授業が選択で設定されている学校になる。まず挙げられるのは「獨協大学附属高校」。そのほか、全国の名門校では第2外国語科目の設定がある。明治期から全国の官立旧制中学では盛んにドイツ語教育がなされてきたが、太平洋戦争後はそうした教育課程がなくされ、英語一辺倒の教育に置き換わってしまった。なので、獨協のような特殊な例を除いて、ドイツ語授業の選択があったとしてもその最終的な到達レベルは初級文法終了程度。CEFRの「A1」レベル。高校側も、それで大学受験などは考えていない。
 そのほかの受験生としては、ドイツ語圏からの帰国子女。そして、医学または音楽に携わる家庭の出身者、または、それを目指す者。おそらく、受験生の大半はここに分類されるはず。

■正解率予測と結果

 難易度や混乱を起こしやすい問題を推測して、平均的な受験生の不正解を25%と見込んだ。したがって、200点満点で150点ということになる。英語の平均点120点より遙かに得点が高いのではないだろうか?

 平成4年度入試の結果を見ると、受験生は108名。平均点は、予想に反して124点。最高点は200点。ただ、この結果では、ますます第2外国語離れが進むのではないだろうか。
 ちなみに、中国語の平均点は164点、韓国語の平均点は145点と、ドイツ語、フランス語(113点)に比べて遙かに高い。これは、それらの言語を母国語としている人々の受験と思われるけれど、大学側からの2次試験での外国語指定で中国語、韓国語が許可されていることは極めて少ないので、特別に有利と言うことはない。

 

■問題解説

第1問

 単語に関する設問。
レベルAは初級レベル。レベルBは中級レベル。レベルCは上級レベル。

問1:[d]と[t]の発音の違い
 語幹になっている単語を知っていれば解答ができる。
 (4)MundartはDialekt(方言)と同じ意味
問2:受験生レベルとしては簡単な単語
問3:名詞と形容詞形でのアクセント位置
 外来語由来の単語とその他の品詞
問4:3人称現在形の不規則変化動詞について
 レベルAの単語
問5:不規則変化動詞の過去形について
 レベルAの単語。というより信じられないような容易さ
問6:「e」のみ語尾につく複数形
 レベルA
問7:同じ語群を探す問題
 グループABCの中から知っている単語をたよりにグループの違いを判定する。Aは調味料、Bは建物、Cは土地などに関する単語。解答群はレベルA。

 

第2問

 空所補充問題。受験生レベルなら容易な問題。こうした問題の対策には、日常的に文章を読み上げることや、できれば「会話練習」などをしていれば耳が解答に導いてくれる。

問1:前置詞nebenに続く格にともなう定冠詞
問2:再帰動詞beeilenのsichを選択する問題。主語から簡単に判別できる。
問3:関係代名詞を選択する問題。
問4:kaufenに金額を示す際の前置詞の選択。やや難。
問5:受け身形の文法。過去分詞を選択すれば正解
問6:現在完了形で人称代名詞に合わせてhabenを正しく変化させる。レベルA
問7:形容詞語尾の選択。初級文法レベルA
問8:チケットなので往復。こうした組み合わせは「上下」、「出入り」などいくつかある。中級レベルまでくれば、こうした文例に触れてきているはず。

第3問

 与えられた単語を使い独作文を完成させる問題。
意味を考えなくても、語順や格変化だけでも答えられる範囲。

問1:Ich werde ab morgen jeden Tag zu Fuß zur Arbeit gehen, weil ich gesund bleiben möchte.
 <易>「,」があり副文をweilがつないでいる。その語順がわかれば簡単。また、ab morgen jeden Tagとかzu Fußとかは慣用的用法。受験生レベルでは何度も接しているはず。

問2:Er war müde und hatte keine Lust, nach der Schule mit seinen Freuden schwimmen zu gehen.
 <易>nachがあるので「学校の後」、mitがあるので「彼の友達と」などは日本文から容易に想像ができる。3人称に対する過去形が最初の下線に入るのでwillは適用できない。選択肢からはhatteが人称変化・時制から該当する。
 zu不定詞の用法からzu gehenとなり、その目的はschwimmenとなり、語順からschwimmen zu gehenとなる。

問3:Wir haben gehört, dass nächste Woche einer Gruppe von Fachleuten aus China unsere Fabrik besichtigen wird. 
 <易>ここでも「,」があるので副文にするためdassが最初の下線に入るのは明確。「来週」のnächste Wocheは場所的に[20]意外に入る場所がない。副文全体は受身形になっているのでwerden+過去分詞。dass節なので主要動詞は語尾で語順は逆という初級文法から、最後のbesichtigen wirdは容易に導ける。また、受身の主体はvon以下で示すのでFachletenの前に必要となる。

問4:Es ist noch nicht sicher, wann man auch auf dem Mars wie auf der Erde leben kann.
 <易>やはり、副文の先頭は「いつ」という関係副詞wannが入るのは明白。
先頭文ではなにがnoch nichtなのかを日本文から「確かではない」であるのでsicherが入るのも明白。また「地球と同じように」には単純にwieが入る。選択枝[23]はalsと迷うかもしれないが、ここは最も単純にwieで十分。
 文の最後は、選択肢から使えそうなlebenとkannのみ。語順を考えるとleben kannとすぐわかる。
 auch aufとか、wieの後に再びaufを使うなど、発音するとなんとなく文としてよくない感じがする。文法問題のために作られた文章という感じがする。

 

第4問

 騒音のうるささでアパートを変えようとした主人公に、偶然、友達が住む共同アパート(WG)に空きが出たことを伝え、そのWGを下見に行く会話文。会話の前半は、主人公が騒音に悩んでいたところ、運良くちょうど友人がWGの住人を探していた内容。後半は下見での会話。設問を3問はさんで共有スペースと同居人についての説明。
 会話の内容は読み飛ばしても理解できるレベル。物語の進行を考えれば、全体的に<易>なレベル。
 こうした問題を通じて受験対策を考えると、初級文法を終えた時点で「会話文」などを学習するのが有効と思われる。たとえばDuscheやそれに伴うBadewanneなどの単語には会話文で必ず触れる単語。

 

問1:下線部の理解
 下線部で仮に知らない単語があっても前後の文脈から、その文が何を言っているかを想像し、知らない単語にあたりをつける能力は必須。
 Abend mit Freuden Partyが開催され、下線の後でIch suche jetzt einer Wohnung.と初級文法レベルの単語のみで、この前後が読み取れる。「パーティが開かれた」のに「住みかを探す」ので、決してパーティーに楽しく参加したのではなく、騒音に悩まされていて、苦情を言っても聞かないので、住みかを変える決心をしたと容易に想像がつく。こうした推測による解釈は間違えもありそうに思われるけど、現実の日本語での日常会話の際、話の前後から多少聞き取れなかったとしても会話は成立していることと同じ。
 中級後半レベルの単語beschweren。初級単語schwerからでは推測できない単語。だからこそ中級後半レベル。「苦情を言う」。この動詞は再帰動詞でsich bei jm.となる。確かに、mich bei ihrと本文にも書かれている。ちなみに、その「内容」について記述するときは前置詞überを用いる。また、副文の動詞bringenはここでは辞書では4番目の意味「結果をもたらす」。共通テストでは問われないが、和訳の際に、基本的な単語の意味から、その文に適切な訳語を当てはめる能力は求められる。そういた適切な訳語は辞書の2番目、3番目に掲載されていることが多い。なので、基本単語を調べた際に、下位の訳語にも目を通しておくことは重要。
 
 選択肢を見ただけでも正解は2と容易に選択できる。出題者からすれば、選択肢の設定に苦労をする。テストワイズ対策をとる必要もある。しかし、それより難しいのが「正解」という答えを設定すること。1%でもほかの選択肢に可能性があっては正解にならない。そこで、最近の試験問題文には、共通テストに限らず「最も適切なものを選択しなさい」というような表現がとられている。この場合だと、たとえ1%の可能性がほかの選択肢に残っていても正解を設定できる。ここでは選択肢2の中に「苦情」という単語を忍び込ませているので、ここに書かれていないストーリーとしてほかの選択肢があったとしても、この一言で選択枝2が最適な解となる。

問2:文意の選択
 <超易>選択枝にでてくる単語だけを拾っても解答ができる。
「ホストファミリー(Gastfamilie)」、「学生寮(StudentenWohnungheim、Schlafsaal)」という単語が本文中に出てきていない。また「WG」はこの後で話題になる単語。ということで選択枝3を選べる。

問3:会話文を補う問題
 <微妙>文脈から「心配はいらない」というような内容が該当する。選択枝2「vorsichtig(慎重な)」は文意からない。選択枝4も適切ではない。選択肢1は後押しをする文としてあり得るかもしれない。選択肢3は求める解答とズバリ一致をしているので、これが正解。ただし、選択肢1を完全に否定できる要素も潰せない。

問4:空所補充文
 <易>[27]は、その前にweilがあるので「もう住みたくない」理由を選択すればよい。

問5:空所補充
 <易>みんなで仕事を分け合っている例を挙げている。正解2の単語を除いては初級単語ばかりなので選択が容易。
 m.Putzenは「磨く」から転じて「掃除をする」とか「かたづける」に。海外では床をモップで拭くのでこの単語がイメージに合う。学習過程で童話とかを読んでいれば「靴磨き」として触れるはず。

問6:文意の質問への解答選択
 <易>共同生活者の一人がコーヒーを飲まない理由を質問。本文中でRamadanという単語を見つければ文を細かく読まなくても選択肢4を選択できる。
 m. Gurndは、その「理由」を示すとき前置詞ausを用いる。

問7:会話の意味を問う
 <易>最初の文中にMitbewohner(同居人)はrücksichtsvoll(思いやりのある)とあった。これの単語の意味がわかっていれば解答は簡単。本文の内容を理解していれば解答は容易。

問8:会話文から図面を選択
 <易>die erster Tür linksから入ってすぐの左側にAlexiの部屋があることがわかる。gegenüber sind die Toilette und die Duscheとあるので、向かい側がトイレとシャワーであることがわかる。ここで選択肢は1と2が残る。続く文にkeine Badewanneとあるので「バスタブ」がないことから選択肢2が正解となる。
 この問題がもしリスニングであれば難易度がグンと上がる。

 

第5問

 夏学期に履修するスポーツのコースを選んでいる学生の会話。
タブレット」(挿絵)で内容を提示しているけど、このレベルでは使った挿絵に意味がない。また、後半に「メール」や「チャット」が設定されているけど、無理矢理な感じがある。本当の「チャット」ならもっと砕けた書き方や略された書き方がされるので、大学入試では不適切となるが、これだと単なる会話文でしかない。
 ドイツ語の日常会話で使われる単語のほとんどが辞書には載っていない。
そこで、そうした単語なしに会話文を作成すると恐ろしく簡単になる。しかし、本物の日常会話文は使えない。結果、問題は易しくなる。

問1:理由の選択(独文)
 <易>2行下にden Finger gebrochenとあるので、下線32の理由がすぐわかる。正解選択肢1の中にsich verletzen(傷を負う)がある。この単語は中級レベルであるけど、ほかの選択肢は容易に読めるはずなので、そこから間違った選択肢を外しても正解にたどり着ける。

問2:文の別な表現選択
 <易>viel zu heißとあり、時期が夏期であることを考えると選択肢は4となる。

問3:空所補充
 <超易>初級文法範囲。時間表現でhalbを使った表現。水曜日の夕方6時にスタートするのでゼミが終了するのはそれ以前でなければならない。この時間表現を知らない受験生がいるのか?サービス問題としか思えない。

問4:選択理由(日本語)
 <易>ここでは理由とならないものを選択する。問題文でも丁寧にゴシック太文字となっている。やはりここでも、適切でない「1つ」を選択するので多少考慮の余地があってもその選択肢は外せる。「Full Body Workout」のイラストには、中央にダンベルを上げているイラストがあるけど、このイラスト内や本文中にTrainingmachineという単語は出てきていない。そのほかの理由は以下の通り文中にある。
 選択肢1:ich auch nicht arbeiten
 選択肢3:zu Hause selbst machen
 選択肢4:dahin kommen

問5:意味を問うドイツ語文の空所補充
 主人公がなぜe-mailを受けとったかの理由を尋ねる文章。
1行目にvielen Dankがあるけど、2行目に目を移せばLeiderという後が目に入るので、何かのお詫びのためにこのメールが送られてきたことがわかるはず。つまり、希望していたFull Body Workoutのコースは満員なので、ほかのコースを選んで欲しいというメール。とわかれば選択肢4が簡単に選べる。
 Verfügungは中級レベルの単語。jm. zur Verfügung stehenで「自由に使わせる」「用立てる」「提供する」の意味。この単語の選択にメール送信者の配慮が込められている。

問6:文面から読み取る
 <易>最後に、メールから参加できるコースを選択する問題。結局、Mittwoch Abend ist frei!なので時間的にも選択できるのは選択肢2のZumbaになる。

 

第6問

 寓話的物語文。ドイツ語の昔話文章には寓話的な物語が多い。ただし、寓話文はよく似た対象者AとBが登場するので、正確に読み取らないと混同する。この文章では袋を落とした金持ちとそれを拾った正直者が登場する。裁判官がどのようなことをそれぞれに言い渡すかを正確に理解することが重要なポイント。
 こうした物語文では、解答を先に見て、日本語文から使われている単語を読み取ることが大切。そうすれば、知らない単語でも本文を読み進めるうちに想像できるようになる。

◆単語
初級以降の単語をピックアップする 
(mは男性名詞、fは女性名詞、nは中性名詞)

 klug:利口な、m.Richter:裁判官、m.Verlust:紛失、versprechen:約束する、f.Belohnung:報酬、ehrlich:正直な、m.Beutel:袋

 中級で学ぶ動詞freuenの使い方:freuen「喜ばせる」と他動詞。自動詞とする場合は再帰動詞となる。そして、同じ「楽しむ」にも2通りあり、単に「楽しむ」という意味の場合はsich an et3を使う。「楽しみに待つ」という意味がある場合にはsich auf etとなる。前置詞aufに期待して待つ感じが込められている感じがする。
 forderen:要求する、f.Aussage:申し立て、erkennen:識別する、見抜く、folgend:次の、後に続く、n.Urteil:判決、m.Rat:忠告、geduldig:辛抱強い

問1:文意に沿って短文を並べ替える問題
 文全体のストーリーの流れを理解しなければならない。本文を正確に読み取れていない場合にはほかの設問を解きながら十分に内容を理解してから取りかかっても良い。選択肢の文章間の距離が詰まっているところがあるので、十分に注意して並べなければならない。

問2:金持ちの男と発見者の主張を組み合わせる問題。
<易>各選択肢が2つずつしかないので容易。

問3:裁判官の判決を選択
 <易>消去法で選択できる。
選択肢2は、本文にない「発見された場所や形状」とあるのでNG。選択肢3は、本文にない「感謝の言葉」とあるのでNG。選択肢4は、「お金を二等分して」と本文にない結論なのでNG。したがって、正解1が容易に導ける。また、選択肢1のみが3行と長い。テストワイズ的には、正解は規制を多く入れるため長くなりがち。他の選択肢とのバランス関係で選択肢の作り方に難あり。

問4:最後のまとめ文を選択
 選択肢2は、enttäuscht(失望)den Finderとあるので文意と合わない。選択肢3は、10 Silberstückeを与えたとあるのでNG。選択肢4は、双方がzufrieden(満足)とあるのでNG。

問5:本文の内容と合うものを2つ選択
 選択肢1は、発見者は袋の中を見ずに渡したのでNG。選択肢2は、金持ちは報酬を渡そうとしたとあるのでNG。選択肢5は、金持ちの男と発見は結託していないのでNG。ちなみに「結託」は、sich mit jm. verschwören。選択肢6は、金貨10枚渡してはいないし、さらに要求もしていないのでNG。
 選択肢4は、「一計を案じた」とある。その具体的な行動部分が本文にはない。ただ、文中にDer kluge Richter erkannte die Ehrlichkeitとあり、金持ちの悪い思いつきを見抜いた。2つ選択するようにあるので、これを正解とする。

 

第7問

 レム睡眠・ノンレム睡眠についての記事。
問題文中に「記事」とあるが、実際の新聞記事ではない。実際の新聞記事は省略が多く、また新出単語が多く理解に苦しむ。
 この2つの睡眠状態について理解していれば解答は本文を熟読しなくても常識で答えられる。高校卒業者としては一般常識としてこれくらいの内容は知っておいて欲しい。そうした前提があれば容易な問題。
 こうした説明文では、主張する内容が「Ja」なのか「Nein」なのかをきちんと把握することが大切。「~ではあるが、~ではない」と後半で否定する場合などが多くある。この場合sondernなどの簡単な接続詞は使われないので、副文の長いドイツ語的な表現に慣れておく必要がある。

問1:正解選択肢中のallをどのようにとるかにかかっている。ここでは「すべて」ではなく「ごと」の意味にとる。

問2:文意で考えれば正解は容易

問6:<常識>

問7:<易>

走れ、走れコウタロー

2022.7.4. フォークシンガーの山本コウタロー氏(1948-2022)が亡くなった。

1970年、『走れコウタロー』が大ヒット。

 バンド「ソルティーシュガー」のメンバーとして、いつも遅刻を繰り返す山本厚太郎を茶化した歌が、本物の同名の競走馬が登場して、そして、時代も美濃部都知事公営ギャンブルを廃止を宣言し、さまざまなことが重なって重なって、この年の新人賞を総なめにした。その影響は翌年のヒットチャートにまで影響を与えた。



 このヒットは凄かった。
当時、まだ小さな子供だった僕でも、途中の「アナウンスや実況」までひと文字も間違えず言えた。いや、当時、世の中全員が言えたと思う。それだけの大ヒット。1970年といえば、大阪万博も開催された年。

 経済が超上り調子になって行きはじめた頃。

 しかし、その数年前までは、10年ごとの安保改正反対で、69年は東大安田講堂に立てこもる事件まで起き、世界的にもアメリカは泥沼のベトナム戦争から抜け出せなかった。

 「戦争が正義」のこうした時代、正義を維持するための安保法が通過する必要があり、そうした「武力に反対」する学生が、またまた武力で抵抗する。もう、まったく、何が正義なのかが分からない時代となった。
 この騒ぎにより、東京大学は2年間学生募集を停止した。このあおりをまともに受けたひとりが山本コウタロー氏でもある。都立日比谷高校から上智大学に進み、東大を目指すも、学生募集停止をモロにくらい、仕方なしに一橋大学へ進学していった。本格的なバンド活動は、この上智大学時代から始まる。

ノンポリ
 心ある当時の学生(?)は、学生運動に積極的に参加していった。そして、各大学や各地で繰り広げられるゲバ活動に参加していく。しかし、単なる傍観者も大勢いた。
 当時は、高度経済成長で、中学生が「金の卵」と呼ばれ集団就職をした時代は過ぎ、所得倍増のお陰で、ある程度の給与を手に入れた親は、自分たちの果たせなかった「大学入学」の夢を自分たちの子供に託した。したがって、これほどまでに都市部、特に東京に若者が就職でもなく時間を持て余し気味に集まる元となった。

 彼らは、考えのない「ノンポリ」(ポリシーのない)とよばれた。
その内、学生活動も盛んになると、大学も次々封鎖となり、田舎から親の期待を背負い送り出されたノンポリの子供たちは、下宿で同棲生活にズブズブと陥る。
 そんな、心情を当時、火がつき始めたジャンル「フォークソング」は歌う。

 代表作は、かぐや姫が歌う『神田川』(1973)。

 「あなた、もう忘れたかしら・・・」と歌い始める。
つまり、この時点で過去を思い起こして歌っている。大学封鎖も続き、ベトナム戦争も続き、将来に対して明るい展望を全く持てない。今こうして、学生2人で身を寄せ合っていることさえ、そのうち疑問がわいてくる。そしていつかは別れが訪れる「未来」。
 とにかく、こうした心情にはフォークソングというギター1本の形態がよくあう。


 フォークソングは、60年代後半、日本に伝わり、その「心情」という表現に至るまでは、コミックソングとしての音楽的な枠組みを獲得していた。

走れコウタロー』もその枠の中で誕生し、ヒットした1曲。

 コミックソングの系譜をその前に辿れば、1967年、加藤和彦も含むフォーククルセイダーズが飛ばした大ヒット『帰ってきたよっぱらい』がある。


 この曲は、当時の最新の録音技法をふんだんに盛り込んだため、生演奏が不可能だった。
 走れコウタロー』はセリフも含まれているところから、とにかくこの『帰ってきたよっぱいらい』と同じ系譜の上にある。

 

それぞれの別れ
 そして、短い大学生活も終わり、それぞれの田舎に結局は帰っていく。
   「大学はでたけれど・・
 結局、中卒と同じ仕事につくわけには行かず、縁故をたよって故郷に帰っていく。なにしろ、勉強したくても大学で講義がなかった時代なのだから、「優秀」と名のつく人間はどこにもいない。散々囂々と散っていく。

 同棲の『神田川』の向こうには別れが訪れる。当然、親になど相手を紹介できるはずもないし・・・。



 1972年、別れの季節が訪れチューリップは『心の旅』を歌う。

ああ、だから今夜だけは君を抱いていた・・明日の今頃は、僕は汽車の中

 彼女の方が先に田舎に帰ることもある。

 1973年かぐや姫の作品。1975年にイルカがカバーして大ヒットとなった『なごり雪



 大学最後の試験を終えて、3月末に虚しく田舎に帰る。
ただただ季節外れの雪がホームに降っている。一緒にいたときには気がつかなかった、彼女の美しさに別れ際にハッと気がつく。それは見かけだけの問題ではない。

 そして、1974年、山本コウタローは自分のバンド「山本コウタローとウィークエンド」で、『走れコータロー』依頼の大ヒット曲を飛ばす。
 『岬めぐり

 作詞は、『翼をください』『瀬戸の花嫁』などなど大ヒット曲を手がける山上路夫(1936-)。
この詩には、『心の旅』や『なごり雪』のような具体的な別れが表現されてない

 いっしょに行こうと言っていた岬を1人で訪れる。そこには、別れや失恋などの言葉が全くない。もう、既に別れてしまっている。

悲しみを胸に沈めたら、僕は街へ帰ろう

 やはり、僕には、別れた悲しみや思い出をこのバス旅で気持ちを押しつぶして、そして新しい旅立ちを無理に決意しようとしているとしか思えない。


 ここで詳しく描くわけには行かないが、その後、山本コータローにまつわることは僕の人生の初めの時期にまとわりついてきた。

 

不思議なコード
 『岬めぐり』は、当時、まだ和声などを知らない僕にも不思議な和音が響いた。

 そもそも、サビの部分が短調!?
なんで?
 原調はGmaj。

 で、サビの部分は平行調のEminに進んでいる。といっても平行調のVI度の和音に進んでいるのだけど。そして、そこへの入口はVI度調のV度和音、コードネームで言うとB7が使われドミナントモーションによりVI度の和音(Em)に進んでいる。

 さらに、この曲は至る所で音楽の基本である「循環コード」(カデンツにしたがっていない。いわば、この時代のフォークソングの騎士たちはコード進行など十分に知らず、ある意味見よう見まねで曲を作っている。

 循環コードはT-S-D-Tと進む。
そして、S(サブドミナント)にはさまざまな和音があるので、そこには「傾向」というのかS和音の使われる順番がある。理屈を考えれば、それはD(ドミナント)和音にどれだけ近いかによって順番づけられている。

 S和音の中でも代表的なものは「IV度」と「II度」の和音。この原調のGmajでいえば、「C」と「Am」のコードになる。
したがって、このS和音を2つ使って循環コードを並べれば、

 G → C → Am → D7 → G

となる。CとAmがS和音にあたる。そして、順番はこの順番。

 しかし、この曲の2フレーズ目では

 Am → C → D7 → G(岬を僕は訪ねてきた)

と進行している。AmとCの順番が逆!!

 このAメロの終止もD(ドミナント)により終止をせず、いわば「アーメン終止」をしている。

 D7 → C → G (それはかなわないこと)

 音楽の基本はドミナントによる終止で、中世の音楽や音楽教育が十分なされない場合、時々ポピュラー曲には、この超古くさい響のするアーメン終止が登場することがよくある。いや、これはロマン派のブラームスも終止で好んで使った終止。D7と解決和音のGの間にS和音であるCを挿入する。

 上のコードの正しい並び方は C→D7→G

 さらに、サビの部分においても、平行調へ進むためのVI度V度の和音からIV度の和音へ進んでいる。

 B7 → C (窓に広がるバスは走る)

ここは通常であればB7→Emへと進進行であるべき。

 さらに、サビの後半では、トニックのGのコードから循環コードを形成することなく浮遊したコードがつづく。

 C → 「G」 → Am → 「G」(悲しみ深くこの旅沈めたら、この旅終えて)

とGを中心に不安定和音(II度)へと行き来している。

 やはり、こうしたコードの動きは重要な歌詞の部分に当たっている。

 現代のように、山のようなコードスタイルが築き上げられた時代では珍しいことでもないけど、この時代を考えると非常に斬新。それは、素人だからこそ発想できるコードのつながりに、繰り返し名曲として聞くことで、そうしたものがコードスタイルとして現代では定着している。

その後の人生は
 非常に紆余曲折とした人生を歩んでいる。といっても、悪い意味ではない。様々な道を歩んで来ている。

 婚姻届こそは出していないけど、きちんと上智大学のチャペルで挙式を挙げ、近くの高級ホテルで挙式まで挙げている。その理由は、未だ持って謎。

 もともと体が弱く、奥様の食事の効果もあり、それらのことから地球環境学としていつの間にか地位を確立していました。
 コロナの女王岡崎先生でも有名になった白鴎大学の教授にまでなっています。その間に、留学を2度もし、地球環境サミットにも出席するほどのエコロジストになっていた。

 それと同時に、ワイドショーの司会や、『渡る世間に・・』にまで俳優として出演している。
 ドラマの中でも中年達の集う「渡鬼バンド」としてデビューしている。

 『渡鬼・・』は、僕の仕事上でもあるつながりがあり、お世話になった。

 そういえば、参議院議員にも出馬して落選している。本当に、いろいろとある。

 この後は、白鴎大学の教授を本拠地にし、真面目に勤め上げた。
恐らく、その頃から体調を悪くして、ついには脳内出血ということで、2022年亡くなった。

 何度も絡められた山本コウタロー
『走れ』と『岬めぐり』が同時に頭の中で鳴り響く・・・。

 ひとつの時代が過ぎていった。
自分の過去にも映った一時代が。次は自分の時代なのか、それとも、まだ、その間に別な時代が挟まってくるのか・・?
 もう、いい加減良い年齢だから。

料理は化学

 食塩は「NaCl」。は「C2H4O2」。もちろんは「H2O」。
そう、料理は科学なのです!

 「物質Aと物質Bを160度で加熱しながら混ぜる」

カレー作りにしても何にしても、化学なのです。
 だから、化学的才能がない人間は料理が下手です。

「なんで、こんな味になるの?」

と失敗するのは、その化学実験の手順か、分量、時間などを間違えているからなのです。これはたとえ話ではなく、本当に化学実験なのです。中学でも習う「混合物」や「化合物」をキッチンで作っているのです。

メントス・コーラ>
 コーラの中にメントスを入れて浮き出させる動画がYouTubeで受けています。


 だから、おやつの時間に誤って、メントスを食べた後、コーラを飲むと胃の中で同じ事が起きる。原因は、メントスの多孔質とコーラ特有の炭酸が激しく反応をするためらしい。

 普通の食事をしたときにも、こうしたダメな組み合わせがあるのではないだろうか?昔はそれを「喰い合わせ」とか「食べ合わせ」とか呼んでいたけど、つまり、メントスコーラのような反応が起きないように言い伝えられてきたことなのかも知れない。しかし、古典的な「喰い合わせ」は「油と水」とか、「温かいものと冷たいもの」など、胃に負担がかかりそうな正反対の性質を持つ食べ物に対しての言い伝えが多い。

 レモンティーの中に、一緒に出されたミルクを入れるとなんかのような物質が次々と出てくる。子供の頃、そんなイタズラをしたことはないだろうか?出てくる物質はタンパク質なのだろうけど、そんなとき母から
 「お腹痛くなるから、食べちゃダメ」
と言われた。もし、それが胃の中で起きたら。胃が消化のために攪拌していると、胃の中には次々とそのギトギトした消化が難しそうな物質が出来上がる。多分その数時間後には、腹痛を起こすだろう。

 これは「喰い合わせ」を越えた「化学」なのです。

 

<シェフは何を思っている?>
 そして、どうしてこのことに料理人は気がつかないのだろうか?

今日、僕はあるお祝いでフルコースのフレンチ料理をごちそうになった。

 メニューを見た瞬間「やばいかも?」と思った。
一見すると、秋に採れる野菜や果物を豊富に使って季節感を出してはいるが、それらを混ぜることによって、どんな化学反応が引き起こされるか、今のシェフは全く考えてもいないだろう・・・。

 途中のつなぎのお皿で、クリームの上に何かのベリー類がトッピングされた料理が出された。これがコンビニ・レベルの得体の知れない食材なら良いのだけれど、一流の食材だからまずい。化学反応が強く起きてしまう。
 バルサミコのような強い酸性と、トッピングのクリームが反応して、もはや胃の中では大変なことになっているに違いない。

 案の定、その辺りから胃が苦しくなってきた。
また、場合によっては、胃を強く刺激して胃酸を促進させる食材もある。そうした食材から出る汁を乾いたフランスパンが吸収し、信じられない比率に膨張しているかも知れない。それを最初にのんだシャンパンがより一層反応速度を増しているのかも知れない。
 フランス料理のようなバラエティに富んだ食材を使う食事は、それだけに胃の中がおかしくなる。

 こうした、食事によって胃の中で起きる出来事、もっといえば、腸で起きる出来事を予測して料理を作る料理人はひとりもいない。(当然だけど)でも、「食事は健康のため・・」とか言うのならば、まずは、食べることで消化器官で何が起こるかを考えてから、そうした発言をするべきでは??
(ついに、料理は生物学にまでなったのか・・?)

 

<最適な食事>
 考えて欲しい。よほど怪しいものを食べない限りお寿司はいくらでも食べられる。だから、回転寿司が成り立つ。

 ご飯に、マグロに、のり。相性が良い。それをお醤油につけて食べる。相性が良い。お椀の具はアオサ。これまた海のもので相性が良い。案外、日本の食事は、変な化学反応が胃の中で起きないような食材同士が組み合わされているのかも知れない。そのことが、真の意味で「日本料理は体に良い」と言うことだと思う。

 おもに、70年ほど前、私たちの口に入るようになった西洋料理。それを見よう見まねで作っていると、変な化学反応が起きる。その原因は、時間が違うのか、温度が違うのか、材料の分量が違うのか??ハンバーグとデミグラスソース。どこの一流店でも、食べると胃が重く感じる。胃の中で、何かがメントスコーラ状態になっているのだと思う。(単に、年取っただけか?)

 フランス料理に、日本の食材はありえない。京野菜などフランスにはない。季節の柿などはない。そうした現地にはないものを使い、地元にない調味料を使ったら、怪しい化学反応が起きても不思議ではない。創作料理は止めて欲しい。寿司はアメリカのお店で「寿司だ」と言ってでる怪しげなものではなく、やはり日本の寿司が最高です。ならば、フランス料理も、直球で出してもらいたい。

 今度、食後、どうもお腹が重くて、ゲップがいつまでも出るようなときは、食べた食材を思い出して欲しい。そして、その店には2度と行かないことです!!

写真はpixabay

アポロ宇宙船??到着 H3-VR

 360°VRオーディオ録音 Zoom H3-VR

 

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 バイノーラルとか、VR空間の録音が出来るマイク(?)
最近では、会議の時にどの方向から発言があっても集音できると人気も高い。高機能でありながら2万円台と案外安い。

 その立体音響の録音形式なんですが、
「Ambisonic A」は、4つのマイクを単一指向性のマイクとして独立させて記録するもの。
せっかく、立体音響が採れるので、「Ambisonic B」フォーマットで。これなら、なんとCubase pro10以降であれば読み込んでくれる。

 で、ここで思い直した。
  「後ろ側とか、上下とかの録音するか?」
 音楽だと正面だけだろう?確かに立体的に録音はしたいけど、上とか後ろまで録音したからって言ってゴージャスな音が採れるか?後ろの席で寝ているおっさんのイビキを録音するくらいだろう。
 さらに考えれば、そんな立体映像やVRの仕事はまだ来ない。
5.1chとかはあるけれど。後ろから前に車が移動する音響なんて、なんか子供だましだろう?映画館で聞くとほんとそう思う。さらにだ、試作した音響をクライアントが確認出来ない。会議室とかに5.1chなんかのシステムなから。だったら、ステレオでバッチリ加工した方が反応が良い!

==後日談==
 結局、電源入れて、SDカード入れて、試しに家で録音して、編集ツールで再生をしようとおもったら、背面のスピーカーが引越し以来、配線していなかったことに気がつく・・・!
 あーこれから一晩がかりで、机移動したり、配線したり考えると・・・止めた。(←根性なし!)
 仕方ないので、ステレオ出力してみたけど、何の変哲もなかった。

 で、3回くらい電源入れただけで、結局はまたまた売ってしまった。
Sofmap買取で「8千円」と言われたので、思わず「えっ!」て聞き直した。